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物想いに耽りて足を休め、愈々手切と相成り候間

【日々】時間の流れに関する備忘録

4日程無為に過ごす期間(ちょっとした連休ともいう)が出来て、
うち2日は幾らか活動したが、残る2日は例によってニートとして過ごした。

自分でも、その2日の過ごし方は全く生産性がない、
あんスタのイベントをこなしては小説を読み、
合間に(散々見た)FREEDOMとダンロンを流し、
再び焼きそばパンとスポドリを消費しては小説を読み…と繰り返しただけで、
いい歳した(成人女性の)生活としては非情に干からびていた自覚はあるが、
その2日がなかったら今こうして脳みそがリセットされていないし、
たまにはちょっと記録も残しておこうかね?なんて発想にすら至らなかったのである。

精神の均衡を保つためには必要だった。まじで。


そんな仕様もない理屈はさておき、
「久しぶりに会う友人」とは時間の経過を感じさせない。
 その感覚と同時に、相反して時間の経過をとても感じる。
 
これは自分自身の時間経過と通り過ぎていった人々を思い起こさせるためだ。

 「通り過ぎた」とは抽象的で、具体的には「友人」が「知人」になってしまう状態、
自然と連絡を取らなくなった状態や意図的にシャットアウトしている場合を指す。 
何にしてもどんな理由であれ、親しくあった存在と距離が空いてしまうのは寂しい。

しかし物理的な距離感や人生の節目などのタイミングも関係してくる。
楽しかった時間、所謂思い出フィルターは中々に強大だが、
寂しい気がしても特別なにをするでもない。なにせ「気がする」止まりなのだ。
だから、そのことに気付いた時、ああ通り過ぎてしまった…と感じる。

もちろん、通り過ぎただけで、嫌いになったとか忘れてしまった訳ではない。 
何かのきっかけで再び道が近づくこともあればそれでよしとは思う。

そもそも通り過ぎてほしくない場合は、常に意識の片隅に存在があるのだ。
自分に何かあった時、例えば不慮の事故で亡くなるようなことがあった時
なんとかして連絡を取ってほしいし、その手段や繋がりは残しておく。


また、それはそれとして感情の機微も減ったなあと思う。
以前は、どんなに仲が良いと(一方的にでも)思っていても、
(たとえ家族でも)折り合いの付かないことはあるし全部受け止められる菩薩さはない。
私の器が極めて小さいとしても、無駄に諍いを生みたくはない。
日本人よろしく、本音はオブラートに包むことで安定した関係性を保つ。
…ことがフラストレーションになったとき、ぶち壊すようなアクティブさがあった。

だが最近は、何か思うところがあっても、
それでも別にいいと思って流す方向にシフトしている。
大人になったともいえるが、負の感情を抱えるのは疲れるので、
頭抱えて唸るくらいなら丸ごと切り捨てたいと思ってしまう。

単にめんどうくさいだけでもある。
 
そう、めんどうくさいのだ。
めんどうくさいが極まると人間関係のシャッターが降りる。
携帯のアドレス帳から連絡先を消すように。

昔、地味にガールスカウトに所属していたのだが
そこで覚えた曲に
 新しい友をつくろう 古い友も忘れず
 新しい友は白銀(しろがね) 古い友は黄金(こがね)ぞ
というのがあって30秒くらいで終わってしまうんだけど、
割といい曲だなあとたまに思い出す。というか耳に残っている。

新しい友を作ろう的な前向きな若さが減少しつつあるので、
それでは世界を狭めていくだけだと思うから、この視点は忘れずにいたい。
 
少しイイ話ダナーで無駄に長い独り言を締めます。




どうでもいいけど市川実日子さんは大友克洋作画っぽい雰囲気がある。
と思っていたら、支部でそんな絵を見つけて感動した。

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